2016年9月16日金曜日

いのちの生まれる場所 会いたい人たち 其の3

今年の夏の始まりに、ある集いの場で、大皿さんご夫妻に逢った。
様々な業種の方がゆるやかに喋って、笑って、食べて、飲んで…
好きな時に来て、好きな時に帰る、そんな会だった。


 「かっこいい農家さん」のお隣に偶然座った私は、
あまり接触する機会がない、今の農業や働き方のことについて色々と質問した気がする。
ちょうどその頃「国産ネロリ」について調べながら日本の農や食について考えていたことも重なり、興味深くお話に耳を傾けて。


野菜と果樹を育てる生活の違い、
地域で支える農業のCSAという新しい形や
ファームをシェアするという考え方について。

「真夏でも一日外にいるから、夜は涼しいほうがいいんだけど」と笑いつつ
エアコンのない場所で、汗を拭きながら、窓辺から時折流れてくる風を感じながら。

「作っている人だって、食べる人の顔が見たいんだよ。」

物事の本質に触れる瞬間、というのが確かにあって
あの時出逢った大皿さんの言葉は
私にとってのそれだった。

ノウハウやセオリーを必要としない、絶対的な感覚。
与えられたシステムの中では見つけることのできない、手のひらの中の答え。


それ以来、ナチュラリズムファームさんの有機野菜を毎週開催される朝市eatlocalkobeへ足を運び、顔をあわせながら直接購入するようになった。


また、CSAと伴走する「ごちそうじかん」という素敵なイベントに参加をしたりしていると、それらに関わる人たちの活動や想いのなかに 何かしら共通するものを感じるようになった。

この人たちの望んでいることや 行きたい方向は、きっと私と同じなのだろうと。



そうすると、こんなにやさしい味のするお野菜たちの
「いのちの生まれる場所」がどうしても見たくなった。

見たい、というよりむしろ、そこに立ってみたい。
そこにある土に触れ、そこに流れる空気を肌で、全身で味わってみたい。


あちこちからお声が掛かっているにも関わらず
私の訪問を快く受け容れていただいたことに感謝しながら
早朝、西区まで車を走らせる。


「Natura♪ism Farm」
お手製のかわいい看板。
ブルーの無人販売所。
自分の家からそれほど離れているわけではないのに、別の世界に来たような感覚。
雨粒を含み湿った風が、稲と草と土の香りを運んでくる。




砂と見間違うような さらさらの土。
その手触りはまるで 粉。
ここに根を張り、お日さまの光を浴びて、植物たちはそれぞれのペースで大きくなる。
種から芽を出し、双葉になって、力強く。



幼い頃、祖母がする畑仕事を見に行くのが好きだった。
ほとんど遊びにいく感覚で、当時の私にとってはかなり大きい一輪車に収穫したものを積んで、近くを流れる川からバケツに水を汲み、運び、蒔く作業を時々手伝った。


「となりのトトロ」のサツキちゃんが、もぎたての きゅうりをその場でかじるのを観て「私と同じだ」と思ったこと。
子どもたちが、そのシーンが一番好きで「いいなぁ」「あこがれる」と言ったこと。


トマトの葉から、トマトの匂い。
きゅうりの花から、きゅうりの匂い。

時計の針を反対に回すことは出来なくても、
大切な記憶は香りと共に戻ってくる。
その人の中に確かに存在して、ずっと生き続けている。
それが決して失われたわけではないことに、明日へのかすかな希望を感じる。


食べてしまえば、使ってしまえば、過ぎてしまえば、
皆でつくったものはなくなるけれど
一緒に過ごした見えない時間や体験は
一人ひとりの心に灯りをともす。

人と自然、人と人とのつながりは、明日の暮らしをやさしく照らす 確かな光になる。


しあわせの形はそれぞれだけど、きっと「無理のない」形。
続けて行くことが苦痛にならず、自分たちの「生活の一部」として受け容れることの出来る形。
それは誰かから与えられるものではなく、私たちの手と足を使い、少しずつ創りあげていくものなのだと思う。


「毎月必ず一日詣りに行かれるという神社へ、私も行ってみたいのですが」と申し出ると、一瞬驚いた顔で、すぐに笑顔で「いいですよ」と。

誰もいない、でも「神聖な何か」の気配がある
そこに流れる静かで澄んだ空気は、私の故郷のそれと とてもよく似ていた。


どうか、この地が  私たちの暮らしが
よりよいものでありますように。
自分たちにできることを精一杯 、これから先の未来へ
生み出し 伝え つないでゆくことができますように。

ナチュラリズムファーム
〒651-2142
神戸市西区玉津町二ツ屋286-2