2016年9月26日月曜日

瀬戸内の、雨と海と芸術祭と

以前から楽しみにしていた「瀬戸内国際芸術祭」。
初開催の時には偶然、小豆島を旅行していたことを思い出す。


台風が近づいていたため、天気予報とにらめっこしながら3年に一度の「瀬戸芸」へ。


高松港から赤と白の「めおん号」に乗船。
小さな船に心地よく揺られていると
あっという間に伝説の島に到着。


 「あっ」


こんな風に、自然と一体化したアートが好き。
風景に無理なく溶け込む 癒しのアート。
「かもめの駐車場」に本物のカモメさんたちはおらず、遠慮がちに別の場所で羽休めをしているのが見えた。


「モダン・アートはよくわからない」との意見に
その通りだと思うものも確かにあるのだけど
五感を刺激され、心底面白いと思えるものもたくさんある。


作品なのか、それとも以前からあったものなのか。
生活に溶け込む現代アートは「鑑賞するもの」から「体感するもの」に確実に変わりつつある。


「おおきい黒船!でも、帆が上がっていないね。」

そう私が感想をもらすと、手をつないでいた5歳の娘が

「うん、ピアノだね。」

とにこにこしている。

…ピアノ?

よく見ると、確かにピアノでもある。
気が付かなかった。椅子まであるのに。
思い込みでそれにしか見えなくなることを、子供のやわらかな感性に教えてもらう。





古くからある神社、自生する植物。
廃墟になった民家や小学校。
時折降る雨に空を見上げながら、小さな島をゆっくり歩いて見て回る。


すれ違った地元の方に「こんにちは」と小さく挨拶すると、ゆっくり「いらっしゃい」と言葉が返ってきた。 何だか嬉しい。

誰かがつくったツリーハウスを過ぎて、宿泊先のビーチハウスへ。


スタッフは、管理人の方がひとりだけ。
窓からの緑と小さな電球が灯るロビー。


新しいスタイルの「アパート」は
清潔で、余計なものがなく、心地よい時間が流れている。




夕方、広々としたキッチンに家族全員で立ち生地をつくり
お庭にあるピザ釜でピザを焼き、ワインとジュースで乾杯する。


自分たちでお布団をひいて眠り、潮の音を聴きながら目を覚ます。
「生きている実感」が確かにする、ほんとうの贅沢な時間を味わう場所。


次の日は港からバスに乗り、鬼の住んでいたという洞窟へ。




鍾乳洞(しょうにゅうどう)のように、ひんやりと湿った空気。
思いのほか中は広く ガイドなしでは迷子になりそう。
暗闇を手探りで、恐る恐る前に進む。


 いつも思うのだけど、アートと香りはとてもよく似ている。「見えないもの」を表現しようとする世界。音楽もそう。

普段目に見えるものは嫌でも意識してしまうものだけど、視覚優位の世界からいったん自分を切り離して解放すると、隠れていた世界がすぐそこに広がっているのを肌で感じることができる。



「わかっている」つもりになっている現実が
実はわからないことだらけなのだ、と気付かせてくれるのがアートだったり、音楽だったり、香りだったりする。

それらが人工的に作られているものではなく
自然が創り出したものであれば尚更に。


私はといえば
取り入れるときは左脳的なのに、表現するときは右脳的。
あれこれ考える際は論理的で理屈っぽくなってしまうのに、実行に移す際はアバウトに直感を頼りにしてしまう。

でも、そのくらいがちょうどいいような気もしてきた。図らずも今こうして、art and science - 芸術的/科学的側面を併せ持つ「香りの世界」に身を置いているのだから。


「鬼って、ほんとうにいたのかもしれない。」
口々にそう言って洞窟を後にする。
観光に来たというよりむしろ、物語の中に迷い込んだ感覚。

きっとこの島の神聖な何かと、住む人たちの自然を受け容れる生活を垣間見て、皆がそんな風に感じたのだと思う。


霧立ち籠める伝説の島
ぜひ、どうぞ

秋季開催日程:10月8日−11月6日


2016年9月16日金曜日

いのちの生まれる場所 会いたい人たち 其の3

今年の夏の始まりに、ある集いの場で、大皿さんご夫妻に逢った。
様々な業種の方がゆるやかに喋って、笑って、食べて、飲んで…
好きな時に来て、好きな時に帰る、そんな会だった。


 「かっこいい農家さん」のお隣に偶然座った私は、
あまり接触する機会がない、今の農業や働き方のことについて色々と質問した気がする。
ちょうどその頃「国産ネロリ」について調べながら日本の農や食について考えていたことも重なり、興味深くお話に耳を傾けて。


野菜と果樹を育てる生活の違い、
地域で支える農業のCSAという新しい形や
ファームをシェアするという考え方について。

「真夏でも一日外にいるから、夜は涼しいほうがいいんだけど」と笑いつつ
エアコンのない場所で、汗を拭きながら、窓辺から時折流れてくる風を感じながら。

「作っている人だって、食べる人の顔が見たいんだよ。」

物事の本質に触れる瞬間、というのが確かにあって
あの時出逢った大皿さんの言葉は
私にとってのそれだった。

ノウハウやセオリーを必要としない、絶対的な感覚。
与えられたシステムの中では見つけることのできない、手のひらの中の答え。


それ以来、ナチュラリズムファームさんの有機野菜を毎週開催される朝市eatlocalkobeへ足を運び、顔をあわせながら直接購入するようになった。


また、CSAと伴走する「ごちそうじかん」という素敵なイベントに参加をしたりしていると、それらに関わる人たちの活動や想いのなかに 何かしら共通するものを感じるようになった。

この人たちの望んでいることや 行きたい方向は、きっと私と同じなのだろうと。



そうすると、こんなにやさしい味のするお野菜たちの
「いのちの生まれる場所」がどうしても見たくなった。

見たい、というよりむしろ、そこに立ってみたい。
そこにある土に触れ、そこに流れる空気を肌で、全身で味わってみたい。


あちこちからお声が掛かっているにも関わらず
私の訪問を快く受け容れていただいたことに感謝しながら
早朝、西区まで車を走らせる。


「Natura♪ism Farm」
お手製のかわいい看板。
ブルーの無人販売所。
自分の家からそれほど離れているわけではないのに、別の世界に来たような感覚。
雨粒を含み湿った風が、稲と草と土の香りを運んでくる。




砂と見間違うような さらさらの土。
その手触りはまるで 粉。
ここに根を張り、お日さまの光を浴びて、植物たちはそれぞれのペースで大きくなる。
種から芽を出し、双葉になって、力強く。



幼い頃、祖母がする畑仕事を見に行くのが好きだった。
ほとんど遊びにいく感覚で、当時の私にとってはかなり大きい一輪車に収穫したものを積んで、近くを流れる川からバケツに水を汲み、運び、蒔く作業を時々手伝った。


「となりのトトロ」のサツキちゃんが、もぎたての きゅうりをその場でかじるのを観て「私と同じだ」と思ったこと。
子どもたちが、そのシーンが一番好きで「いいなぁ」「あこがれる」と言ったこと。


トマトの葉から、トマトの匂い。
きゅうりの花から、きゅうりの匂い。

時計の針を反対に回すことは出来なくても、
大切な記憶は香りと共に戻ってくる。
その人の中に確かに存在して、ずっと生き続けている。
それが決して失われたわけではないことに、明日へのかすかな希望を感じる。


食べてしまえば、使ってしまえば、過ぎてしまえば、
皆でつくったものはなくなるけれど
一緒に過ごした見えない時間や体験は
一人ひとりの心に灯りをともす。

人と自然、人と人とのつながりは、明日の暮らしをやさしく照らす 確かな光になる。


しあわせの形はそれぞれだけど、きっと「無理のない」形。
続けて行くことが苦痛にならず、自分たちの「生活の一部」として受け容れることの出来る形。
それは誰かから与えられるものではなく、私たちの手と足を使い、少しずつ創りあげていくものなのだと思う。


「毎月必ず一日詣りに行かれるという神社へ、私も行ってみたいのですが」と申し出ると、一瞬驚いた顔で、すぐに笑顔で「いいですよ」と。

誰もいない、でも「神聖な何か」の気配がある
そこに流れる静かで澄んだ空気は、私の故郷のそれと とてもよく似ていた。


どうか、この地が  私たちの暮らしが
よりよいものでありますように。
自分たちにできることを精一杯 、これから先の未来へ
生み出し 伝え つないでゆくことができますように。

ナチュラリズムファーム
〒651-2142
神戸市西区玉津町二ツ屋286-2