2017年1月19日木曜日

この街のおとな 光のなかの風景


仕事や園の送迎や
諸々を早めに切り上げて
夕方の少しの時間だけ
ちょっとだけ手伝おう

そう思って出掛けて
気が付いたら
薄暗くなるまでそこにいた


竹筒を支えるために土の入ったボトルを並べることも
キャンドルを浮かべるために水を入れることも
その竹やつどいの場を有志の方が用意しているのだということも
初めて知った前日の夕暮れ

「せっかくだから、つくって帰ったら」
係の方から声を掛けられて
指さす方へ目をやると
大山からはるばる運ばれてきた雪

子供と地元の高校生や関係者と一緒になって
真剣に雪地蔵をつくる
それぞれの頭の上には
公園に咲く椿の花

翌日
街まで出掛ける用事があって
昨日の雪地蔵も気になって
東遊園地に立ち寄った

1月17日の夜

私は「その街のこども」ではなかったし
実際に震災を経験してはいないから
こんな風に
感じた事を伝える事しか
出来ないけれど



「これ、やってみるか」

火の見回りをしている人に声を掛けられて
真っ黒になった素手から新しいキャンドルを受け取る

蝋燭を手にもって最初は恐る恐る…でも、
上手くつけることが出来て喜ぶ私たちを見て
その人は満足そうに笑った

冷え込む外の空気
静か過ぎて
呑み込まれそうな暗闇


炊き出し準備中の婦人会のテントから
明るく手を振ってくれた事務局の人も

「お地蔵さん、すごく可愛くできたね」
と写真を撮ってくれた女の人も

「こんなん、やり方知っとるか」
募金をする際にコマをくれたおじいさんも

優しく声を掛けてくれた人たちすべて
ニュースに流れることはない
その前の、その中の、その後の
この街のおとな

希望の灯りに照らされ少しずつ溶ける雪が
まだ見ぬ春を告げるようで
たまらなくなる



夜が明けて、翌朝の光の中に
自らの手足を使い
つどいの広場を片付ける人たちがいた
きっとこれが
ほんとうのローカル


竹灯籠の中の水
キャンドル
ペットボトルの砂を出す
皆で一斉に
ものすごいスピードで


白い軍手を真っ黒にして
溶けたロウのかけらを拾う
箸で拾っている人もいる
無言で
周りの人たちと同じように
出来ることをする


最後に、雪の片付けをしていると
「慣れたもんやなぁ」
声を掛けられて一緒に笑う
「ありがとうございます」
雪国育ちですから、と心のなかで付け加える



この街に来て随分と経ったのに
未だ知らないことがたくさんあって
新しく出逢うひともたくさんいて
向き合う出来事も風景もたくさんある


生活は続いてゆく
そのほんの一瞬だとしても

この大切な場所に
美しい芝生が戻ってくることを 願いながら
希望と絆と笑顔が宿ることを 祈りながら



2017年1月13日金曜日

往き来するひと 何処までがローカル

鈍色の空
たわわに実る赤
時折降るみぞれ混じりの雪
北陸の冬風景


いつも年末年始を過ごすこの場所で
富山のにおいがする と
子供たちが言う


それはどんな匂いだろう?
変わらずそこにある神社の階段を上りながら
苔むした石垣の小径を歩きながら思う


それは
雪が降る前の冷たい空気の匂いかもしれないし
まだ土の中で眠るフキノトウの香りかもしれない


いったい
何処までがローカル
何処までが地元?


私にとってのそれは例えば
今居る神戸でもあり
故郷の富山でもある。
どちらも同じように、自分の大切な場所だから。

もしかしたら
何度となく足を運んでいる淡路島や、福井県の三方五湖周辺もそうかもしれない。

もっと言えば
かつての留学先のユタ州の学生街や、一人で旅したバンクーバーの港町、家族とレンタカーで周ったオークランドの郊外も。



そこには年に数回でも、随分と間があいてしまっていても
逢いに行きたい人たちがいて、見馴れた懐かしい風景が広がっている。

地元とは「心の距離」のことを指すのだと思う。
それぞれの愛着や、思い出や、心の風景が或る場所。

それはきっと
何処にあっても いくつあっても いい


タイムトラベルの瞬間
緑があれば
そこに
香りがある

あなたにとってのローカルは
何処にありますか




2017年1月10日火曜日

明けましておめでとうございます

新しい年が始まる
いつもはリースで済ます年末年始も
今年は手作りのしめ縄で

多少不格好でも
懐かしい藁のにおい
恵みのかおり


この場をかりて
新年の抱負を

今年は
いただいたご縁を大切に
小さくても
少しずつでも
自分らしく

香りと
人と
自然と共に

前に進もうと思います


本年もどうぞよろしくお願いいたします